先日スーパーでお買い物した時に、
たまたま目の前の人が何か物を落とし私が拾うという行為が4回続きました。
最初はベビーカーに乗っている子供のおもちゃ。
お母さんは肉製品を選んでいて子供が落としたのを気づいていなかった。
拾って渡す😇
2回目は野菜コーナーで品出しをしていた従業員さん。
段ボールの封を切って箱を開けて玉ねぎを摘んでた時にカッターが滑り落ちた。
拾って渡す😇
3回目はお会計を終えカゴからエコバックに購入品を入れていた時。
横のおじさんのブロッコリーが転がり落ちた。
(袋詰め台混むから慌てちゃうよね..!)拾って渡す😇
4回目はスーパーを出ようと思った時。
出入り口付近で切花をいくつか選んでいる年配夫婦の花束が腕からすり落ちた。
サクッと拾って渡し、店を出た😇
長めの信号待ちをしている時にふと自分変わったなと。。
昔の自分だったらそんなに積極的に拾いに行ったかな?
いや結構な確率で見て見ぬふりしたんじゃないかな、
拾っても1回くらいだろうな。。
なんて考えていました。
もちろん、
みんなに「ありがとう」と言われて気持ちが良かったのは嘘じゃない。
嬉しい気持ちになる。行動して良かったと思える。
けど、その言葉が欲しくて行動したわけではない❗️
どちらかというと他人のためでなく自分のための行動。
👉自分がそうしたいからしているだけ
本当これになった。
<昔の自分のえぐい心の声>
めんどう、だるい。
自分でなくても誰かがやるだろう。
そもそも自分が落としたもの自分で拾うのが当然じゃない?
感謝されても何も得ないし。。
見ず知らずの人に自分の労力使うの?いや、セーブしよう。
てか時間ない、無理。
えぐいですね。。
心の余裕のなさ度で、より冷たくなる😢
意識している意識していない関係なく、
損得な考え方がベースにあるのが分かります。
けど、これは私に限らず今の現代人みなこんな感じでないですか?
(東京人は特にだと感じます。。)
今のストレス社会で、競争が激しい社会で、現代人がこうなるのは仕方がないです。
心の余裕がなくなってしまうんです。。
ちょっと人にいいことできた時は、、
自分は冷たい人間じゃないと時折思いたいから
だと思います。
心の奥底にはこの気持ちが隠れて存在しているように思います。
読みながらグサグサグサってきている人もいるのではないですか...😅
見て見ぬふりしてきたのは、自身の心の内。
自分と向き合うのを避けているだけ。
ただでさえ仕事やら子育てやら生活に疲れているんだもの。。
そりゃ考えたくないですよね!
では、今の自分の捉え方がどう変わったかを掘り下げてみると
運動になるから積極的に動く。(むしろ嬉しい)
損得で考えていないから無駄と思わない。
誰かのお手伝いができたら嬉しい。
見返りを求めていない。
このように意識が変わりました。
意識が変わると行動が変わります。
上に加えて一番の変化は、
時間に追われている感覚がなくなった!
もちろんたまに時間に追われている感覚に戻る時もあります。。
だからこそ感じる、俗に言う”心の余裕”
結局これは時間に追われないということ。
実際は忙しく次の予定があるかもしれませんよ?
決して暇人を指すわけではありません。
心の余裕がどう生まれるかというと、
「時間に追われている感覚」なのか「時間に追われていない感覚」
であるのかで大きく変わると思うのです。
後者の感覚になるためには、やはり余白が大事ですね。
日程など詰め込みすぎない、ギリギリは極力避ける。
そして余白を無駄と考えない、むしろ楽しむ!
現代人は多忙に慣れすぎて、特に今のZ世代は便利社会が当たり前なので
昨今はタイパ重視(タイムパフォーマンス)の傾向が強くなっています。
余白時間=無駄と捉えてしまいがちです。昔の私の考え方「損得」に通じています。
心の余裕を持つには、余白こそが実は大事だと身にしみて思います。
時間に追われない感覚になって心の余裕が戻ってくれば、いわゆる人助けというものも積極的にできるようになります。人に優しくなれるんですよね、けどその時点ではまだ意識的に。次第に慣れてくると、いつしか人助けではなく自分のための行動になるので、歩行と同じくらい無意識に手が出るようになります。
現代社会で心に余裕を持つのはとても大変に感じますが、
ある程度は捉え方一つで変わってくると思います。
意識改革!
というとなにか怪しく感じるかもしれませんが、本当これしかないです。
自分の体験が誰かの気づきになれば嬉しいと思いブログを書いて見ました!
最後までお読みいただきありがとうございます💛